マドリッド近くラ・マンチャ


 

 【スペイン便り:序文】

 スペイン情報ですが、どのようなものがよいかわかり ませんが、スペインを紹介しておきます。

 1975年、フランコ将軍が亡くなると、新たに王政も復活し独裁政治の時代に終止符を打った。 スペインがヨーロッパ社会、そして国際社会の仲間入りをするのは本格的にはこの頃からである。

 現国王はフアンカルロス一世、王妃はソフィア王妃。王子達は一男二女で、王女二人は既に結婚。 残すは皇太子ファリッペ王子のみとなったが婚約者はいない。これまで何人かの女性と噂されたが、 結婚まではいたらなかった。

 スペインと日本の関係は良好で、皇室関係のお付き合いも昔から友好関係を保っている。

 現在スペインもヨーロッパ共通通貨ユーロの仲間入りができた事で経済政策に多少の自信がうかがえ、 失業率も徐々に減少、経済成長率も良好である。

 スペインの日本人旅行者は、日本の経済不況にも関わらず僅かではあるが増加している。現在は年間 30万人の日本人が訪れ、歴史と芸術の国、そしてフラメンコと闘牛の国を楽しんでいる。


 是非このページを覗かれた方々、スペインにお越しください。





   【アラミージョ橋】

  先日、及川君が、当地スペインで観光目的ではなく学術の通訳の 仕事をした、橋の話題が到着しました。そのまま紹介します。(画像は印刷物からの転用なので、多少 処理をしました。)



 1992年のセビリア万博を機に、ほぼ町の中心を流れるグアダルキビール川 に5本の橋が建設されました。その内の一つがこれから紹介する「アラミージョ橋」です。この橋は、 セビリア万博会場であったカルトハ島とセビリア市街を結ぶ橋の一つで、マストの高さは141,25メーターです。

 建築家サンティアーゴ・カラトラバの設計によるものですが、彼は建築を志す前は彫刻を勉強していたといいます。

 経歴が物語るように、彼の作品の中には建造物という概念はもとより、彫刻という意識が常に作品の中に 息づいています。この作品は彼の作品の代表作であり、まさしくデザイン・構造・建築・彫刻の総合といえる ものです。もちろん世界の建築家からも評価された作品であることは間違いありません。

 アラミージョ橋は、基本的には二つの橋の構造合体橋です。一つはカルトハ島にかかる526メートルの 橋梁であり、もう一つはサンヘロニモ蛇行部の上にかかる200メートルのワンスパンで構成するケーブルス テイド(支柱とケーブルとで支える)橋であるということです。

 支柱の傾斜と重量が床板重量と均整をとらせ、応用力学を利用したバランス橋であり、傾斜は水平に対して 58度傾いています。2本で1対の13対のケーブルで支え、全体をハープのイメージでまとめています。 またマストの最上部は、トロイ戦争の木馬の頭をイメージしており、ここに彼の彫刻家でもある部分を覗かせて います。この橋の歩道は、従来の両サイド型ではなく車道より一段高くして真ん中に作られていて、それがこの橋 のもう一つの特徴になっています。

 このタイプの橋の建設には、単一構造の普通の橋に比較すると建設費は4倍から5倍もかかるそうです。




・・・ 余談雑談 ・・・

(日本の葛飾ハープ橋よりも美しいのでしょうか。それともそんなことを比較して言うこと事態が間違いでしょうか、 なんなら実際に来て見てみろ! ですよね。)

(建設費が4倍5倍?ですかぁ。さていくらになるのでしょうか。見当もつきませんね。)



“費用の事も出てきたのですが、覚えておりません。通訳をしていると、次の言葉に集中 しますので、仕事が終わると直ぐに忘れてしまいます。確か20億ペセタと言っていたような気がします。”

“この通訳は、やはり専門用語が飛び出すのかなり難しいものでした。でもいい経験になりました。分からない部分は、 英語を交えて理解して頂きました。”





 

バスクの中心、ビルバオ        


 【バスクの民と民主選挙】

 バスク地方について


 スペイン、フランス国境沿いに位置するバスク地方は、スペイン側4県、フランス側3県で構成された地方です。この 地方の成り立ちは特有で、歴史・文化、そして言語にいたるまで他の地方とは異なります。いうなれば一つの民族で構成 された、民族国家という意識を持って生活しています。このような意識の中から、昔から独立意識の強い地方です。 言語は、ラテン語を母体とするスペイン語とは違い、文法的にはウラル・アルタイト語族に属し、アジア言語が起源では ないかと考えられています。そのため、語順も日本語配列と一緒で、この民族はアジアから流れてきた民族と推定されます。

 このバスク地方で10月25日に地方自治選挙が行われました。今回の選挙は非常に意義ある選挙と世界を注目させた 選挙です。それは1959年に結成されたバスク民主主義組織ETA(バスク祖国と自由)が無期停戦宣言をした直後で、 ETAの発言機関である政党と有権者の意識動向に注目されました。ETAはこれまで、度々過激な行動を繰り返し、 テロ行為により現在まで約800人に近い人が犠牲となっています。そのテロ集団が、アイルランドの民族テロ集団の 停戦の影響を受けて、武力行使の道から対話の政治活動に軌道を修正。今までの選挙で、選挙民に対してもETAからの 脅しがありましたが、今回はそのような状況から一新しての自由選挙です。バスク地方、そしてスペインが新たな民主 政治に入った記念すべき選挙です。

 ちなみに、今回の選挙でETAの発言機関である政党ヘンリバタスナは、75議席中14議席を獲得し、前回の議席を 3議席のばし、バスク国民党・民主党に続く、社会労働党と並ぶバスク議会で第3政党に躍進しました。





 

  ピカソの代表作“ゲルニカ”


 【悲劇の町とピカソの代表作】

 スペインのバスク地方は、スペイン語でパイスバスコと呼ばれ、バスク国という意味となります。ここにスペイン 内戦の悲劇、そしてピカソの話題作「ゲルニカ」の舞台があります。スペイン内戦は、1936年7月18日に始まり、 1939年3月まで続きます。「ゲルニカ」とは、バスク地方の一つの町、そしてピカソのゲル ニカには、この町への爆撃の様子が描かれています。

 この悲劇は、1937年4月26日に起こります。
一般市民が平和に、静かにたたずむこの町に、国民戦線派(フランコ陣営)が無差 別的に爆撃を開始。戦線が布告されているため、このような町が爆撃されても決して不思議な事ではありませんが、 この爆撃にはまたいくつかの異なった要素が含まれるため、世界からの批判の的となります。

批判の要素

1 静かな一般市民の町への爆撃(通常、爆撃は、人道的な立場から軍事施設、又は関連性のある施設のある場所から攻撃をかけます)

2 この爆撃には、スペイン人同志の内戦にも関わらずドイツの空軍が参入。

3 この爆撃で投下された爆弾は、ドイツ軍が新たに開発していた新兵器で、この町への爆撃で爆弾の威力を試します。この町を試験場とて使います。

 ピカソのゲルニカには、この爆撃の中で苦しむ・悲しむ・嘆く・戦う・抵抗する様子が描き出されています。


 (ここからはゲルニカの絵を参照)

 右手の方には、両手を挙げて泣き叫ぶ女性がおります。文字どおり女性の住む一帯は戦火に包まれ、彼女の住む家は崩れ落ち、 その瓦礫が彼女の身体の上にのしかかり、その重さに苦しんでいます。左側にも女性が登場しますが、同じように泣き叫び 悲しんでいます。女性の抱く子は首がたれ、この子供はこの爆撃で殺されており、母親の子を思う心と戦争の悲しみを描いて います。

 下の方には、爆撃ではねられた男性の首と腕。男性の腕には剣が光り、抵抗した様子が伺えます。その側に一輪の花が 描かれていますが、唯一この絵の中で平和のシンボルとして扱われ、悲惨な後の平和な世界への望みを託しています。

 また、この中に馬と牛を描いていますが、ピカソはよく自分の作品の中にこれらの動物を用いています。この作品の中 でも一つの動物に一つの性格を与えており、馬は口も開けられ、泣き叫んでいます。身体もよじれている様に描かれ、 この爆撃で苦しんでいる様子が表現されています。馬には弱さの性格を与えています。その反 面、牛はしっぽも跳ね上がり、怒りの表情が表されています。身体も頑丈な形で描かれており、牛には強さを表し、 この戦いにもめげずに抵抗している、戦っている様子が描かれています。

 この絵の制作目的は、1937年に開催されたパリの万国博覧会のスペインパビリオンの壁を飾るために、共和派政府 (この当時のスペインの合法政府)からの注文で描かれたものです。しかしこの題材を絵にしてくれという注文ではなく、 題材はピカソの自由采配です。このようにこの作品には、政治的批判が含まれているため 、作品をスペインに持ち帰る事も出来ず、ましてやフランコ政権が樹立すると尚更のこと、抹消される危険性も 考えられるためピカソはニョーヨークの近代美術館に保存を委託。ピカソとアメリカの約束は、祖国が民主政治に 戻った時には自分の作品を返してもらう事という条件で預けます。スペインには、社会労働党の時代に戻され、 現在マドリッドのレイナソフィア芸術センターに展示されています。

 絵画のサイズは、350cm X780cm。

マドリッドにお越しの際は、是非この作品もご覧になってください。
(無断転載を禁じます)




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